「千羽鶴」と「文字」について

千羽鶴の『鶴の首をつけると良くない』は迷信。」を読んで、ひらめいた。折鶴って、文字(漢字)と同じではないかと。

象形文字と折鶴

漢字は、象形文字で、有り体に言うと、もとは絵だったわけです。実在の犬の形から「犬」という字が生まれました。最初のころはそれなりに写実的だった「犬」の字も、少しずつ変化して、いまや実際の犬とは似ても似つかぬ記号になってしまいました。でも、それはそれで問題なし。犬だということが確実に伝われば、それで大丈夫。

※「干支文字切手」の右上に、象形文字の「犬」がいます。上が頭で下が尻尾。これが変化して現在の「犬」になった。

折鶴も、鶴の形を写したものとして扱われてきました。実在の鶴とは少々(?)形状に違いがありますが、いちおう鳥らしい形をしています。折鶴の頭を折らないと、実際の鶴からは遠くなってしまうのですが、それでも折鶴は折鶴です。折紙を知っている日本人なら、確実に「ああ、折鶴(の完成前)だ」と認識できます。折鶴だ、ということは伝わっています。この意味では「大丈夫」です。

文字は変化する、折鶴も変化する?

当初は写実的だった「犬」の字は、長い時間をかけて、現在の「犬」になったわけで、その過程の中では「脚の先の表現を省略するとはけしからん」とか「頭はどうなった?、それじゃ頭に見えんぞ」とか、そういった批判も少なからずあったはずです。でも、現実問題としては、どんどん抽象化が進み、現在の「犬」になったわけです。

折鶴も、もしかしたら、今より抽象化が進むのかもしれません。頭を折らない鶴が十分に普及したら、次は、首と尾(脚?)を細くしない折鶴が現れるかもしれません。

試しに、首と尾(脚?)を細く折らない折鶴を折ってみました。控え目に言って、鶴には見えません。が、「折鶴」であることはわかります。ぎりぎり「大丈夫」です。

どうせ変化するんだから、放っておけばいい?

たぶん、折鶴が徐々に抽象化されていくのは、しかたのないことだと思います。象形文字の「犬」が現在の「犬」になったように、どこかで誰かが抽象化を推し進めてしまうと思います。

でも、個人的には、今のままの折鶴が好きです。最終的には無力な抵抗かもしれないのですが、私は、私の好きな今の折鶴を、少しでも長い間、伝えていきたいと思うのです。頭を折らない千羽鶴が当たり前の世の中になったとしても、「昔は頭を折ったもんだよ」などとブツブツ小言をたれるような爺さんになりたいと思うのです。

文字についても同様で、今は新字新仮名が当たり前の世の中ですが、個人的には旧字旧仮名(正字歴史的仮名遣い)のほうが好きです。いつまでも「本来の漢字というのは……」と言い続けたいと思うのです。まだまだ勉強不足だけど。