字源について思うこと

「無為徒食日記」の「漢字源」を読んで、あらためて「字源ってなんだろう」と思う。

いつもいつも字源について思い悩んでいるわけじゃないけど、「字源について書かれている文章」を見ると、頭の中がモヤモヤとしてくる。

今日、字源について思ったことを、とりあえず書きとめておく。まだまだ考え中。

漢和辞典は間違っている(という可能性を否定することはできない)

漢字の中には、比較的最近に作られた字もあるわけで、なかには作者まで特定できる字も、なくはない。そういう漢字ならば、字源もはっきりわかる。字源の「正しさ」の基準なんて考えなくても、事実を調べればすむだけ。……だと思われるのだが。

杜定友(杜定仲?)という人が作った「図書館(図書)を意味する字」は有名(?)→ Google 検索「図書館 漢字 杜定友」

でも、ここまで事実関係が明確に思える「図書館を意味する字」ですら、国字とする誤解があるらしい。なにやら漢和辞典にまで間違っているらしい。以下「字の作成者(中国人)がわかっているにもかかわらず、国字とされることがある字」より引用。

作者は、「杜定友」で、1925年に図書館制度の調査に訪日したときに、宿舎として使っていた日本人宅で作ったこともわかっている。この字から「国構え」の最終画を取った字も、このとき「図書」の意で作られている。
ここまでわかっている字に、いまだに国字とする漢和辞典があることは、非常に残念である。

漢和辞典が間違っている、というのは、残念だけど多分不可避の問題で、おおよそ世界に存在するすべての漢和辞典は、いくらかの間違いを含んでいるはずだ。人間のやることなので、100%完全無欠の漢和辞典なんて、存在しない。

現代でこそ、研究も進み、出版社の校正システムも確立され、多くの読者からのフィードバックも得て、漢和辞典の精度は上がってきている。でも、その現代の漢和辞典でも、「図書館を意味する字」のような容易に調べのつく字源ですら、間違えたりする。

昔の漢字字典は信頼できるのか

字源の多くは、ほとんど古文書のような非常に古い漢字字典を根拠にして解説される。この、字源の根拠となる漢字字典は、はたして信頼できるものなのだろうか。

  • 当時は、漢字の研究がなかったわけではないが、非常に限られた人の研究しかなく、十分に批判されたものとは考えにくい。
  • 交通機関が未発達なので、地理的に離れた研究者同士が意見を交わすことは、現実問題として不可能だったと思う。この意味でも、当時の漢字研究の信頼性は揺らぐ。
  • 印刷は普及していない時代なので、世の中に流通する際は、基本的に手書きで書き写された。書き写す際に間違えた可能性は否定できない。

上記は建前で、本音を書いてしまうと、下記。

  • 古い漢字字典は、当時の漢字研究者(=漢字字典の作者)の独り善がりだ、という可能性を検討すべきでは
    • 別に「昔の研究者が怠慢」といった話ではありません。当時は独りで研究するほかなかったし、たとえ独り善がりだとしても何らかの結論を書かねばならない状況だったのだと思います。
  • 古い漢字字典は、誤字脱字だらけだ、という可能性を検討すべきでは。
    • 別に「書き写す人が悪い」といった話ではありません。情報が流通する際に一定の割合でエラーが発生するのは現代も同じで、古い時代ほどエラーの率が高いのは自然なことだと思います。

字形・字義の研究と、字源の研究とでは、状況が違う

漢字字典の内容のうち、字形や字義については、漢字字典以外の大量の文献や石碑などと比較することで、その内容が正しいかどうかを検証することができる。

こういった検証は、当時の漢字研究者(=漢字字典の作者)も行なっていたはず。だから、字形や字義については、古い漢字字典でも、それなりの精度が確保されていると考えられる。また、現代の研究者が、当時の文献や石碑を調べることで、その漢字字典の字形・字義がどの程度正しいのかを、推測したり、統計的に処理したりすることができる。

この意味で、字形・字義については、ある程度客観的で科学的な研究が可能だといえる。

でも、字源の場合、大きく状況が違ってくる。文献や石碑などを集めても、そこから字源の正しさを検証することは、現実問題として不可能だ。当時の漢字研究者(=漢字字典の作者)にとっても不可能だし、現在でもやはり不可能だ。

字源を知るには、字源について解説された、ごく少数の文献に頼るしかない。昔であれば、年長者による口伝(つまり曖昧な記憶)に頼るしかない。収集可能な文献(口伝)の数が少ない場合、統計処理にも耐えられない。収集した文献(口伝)の信憑性が不明な場合には、もう何とも。

こうなってくると、字形・字義のときのような、客観的科学的なアプローチは不可能になる。つまり、研究者の主観に頼らざるを得ない。ある程度の合理性は考慮されるかもしれないけど、合理的だから正しいとは限らない。「どうにも非合理的だけど、実はこういう特殊な経緯で作られた字なんだ」という可能性もある。合理的かどうかは、文字の類に関しては、あまり関係ない(無視していいとは思わないけど)。

字源の研究は、こういった、非科学的で主観的な状況の中、脈々と現代まで、何千年も続いている。つまり、曖昧の上に曖昧を重ね、主観の上に主観を重ねて続けて、数千年であります。個々の曖昧や主観は微小なものだとしても、これが数千年分も積もれば、どうなっているやら想像もつきません。

私にとっての「字源」の位置づけ

そんなわけで、いまのところ、私個人としては、字源は「想像するもの」であって、決して「研究するもの」や「調べるもの」や「学ぶもの」ではない。漢字研究の第一人者が「想像したもの」であれば、それなりの敬意をはらいたいと思うけど、それが正しいとは思えない。

字源の本を買って(借りて)読めば、それなりに楽しんで読むのだけど、それは例えばミステリー小説を読み解くようなものであって、決してノンフィクションや論文の類ではない。

だから、「字源について書かれている文章」を読んで、そこに「勉強」、「学問」、「研究」、「正しさ」といった要素を感じると、なんだかモヤモヤとした気分になる。

よく「神様は存在するか?」みたいな議論があるけど、字源について考えるとき、似たような気分になる。「(漢字の字源について何か知っているという)神様(みたいな人間)は存在するか?」という気分。

つまり、結局のところ……

つまり、結局のところ、まだ「漢字源」を読んでません。いつか読みたいと思いつつ……。