気のおけない

※ 2/19(深夜)追記:下記の私の文章に対して、補足説明をいただきました→「『気のおけない』に関する補足」。ありがとうございます。お手数をおかけして申し訳ありません。続きを書かせていただきました。→「『気のおけない』の続き

「大和但馬屋日記」の「気のおけない話せる友達 それよりもお金が大切ですか」について。

とはいへ、「気のおけない」といふ表現自体にも問題はある。何も知らずにこの言葉に接すれば、そこに警戒のニュアンスを感知しても仕方がないとはいへるからだ。これがもし「気をおけない」であれば誰も疑ひなく警戒の意味として受け取るだらう。

なんだか論理が見えない。「何も知らずにこの言葉に接すれば、そこに警戒のニュアンスを感知しても仕方がないとはいへるからだ」とあるが、この部分は特に疑問を感じる。

何も知らない人が誤解するのを問題視するのならば、「気がおけない」だけでなく、かなり多くの言葉が問題視されることになる。常識的に知られるだけでも、「役不足」や「確信犯」など、多くの「知らない人」が誤解している。「檄を飛ばす」というのも「叱咤激励する」と混同されることが多い。「耳障りが良い」という妙な表現もある。「情けは人のためならず」、「袖触り合うも多生の縁」、「一姫二太郎」なんかもすぐに誤解できる。最近では「アダルトチルドレン」なんかも、知らなければ誤解する。

国語素人の私がちょっと思いついただけでも、このくらいの事例はすぐ出てくる。国語の専門家が探せば、もっともっとたくさん出てくるだろう。

で、もとの文章に戻って、何も知らずに接したときに誤解される表現が問題なのだとしたら、こういった多くの日本語表現が全部問題ありということになる。こういった言葉を全部排除するとしたら、どんなに日本語の表現力が乏しくなることか。

言葉というのは、知らなければ誤解する。当たり前だと思う。それは知らないほうが悪いのであって、表現の問題ではないと思う。

さらに、締めの文章を引用。

言葉を積極的に殺すべきでないことは承知の上で、しかし誤用に伴ふ混乱のリスクを背負つてまで「気のおける/ない」といふ表現を使つてよいのかどうか、一度は考へてみてほしいと思ふ。

言葉は、使わなければ確実に死ぬ。これは私個人の考えなのだけど、誤解のリスクを恐れて「気がおけない」という表現を使わないとしたら、それは事実上、言葉殺しに加担していることになるのだと思う。「誤解のリスクに比べたら、お前の存在価値なんて微々たるものだから、死んでしまいなさい」ということだと思う。

私は、そういうのは納得できない。言葉は常に、どんなときでも、守られるべきだと思う。

もしも、日本語話者全員が生かそう、生かそうと努力し続けて、それでも死んでしまう言葉があったら、それはそれで仕方がないと思う。でも、そうじゃなくて、単に「誤解されやすいから」とか「わかりにくいから」とか、そんな安直な理由でどんどん言葉が死んでいくとしたら、あっと言う間に日本語は枯渇してしまうと思う。代わりの言葉が次々と生まれてくるのだとしたら、そんなにころころと変化する語彙を使いこなすなんて、不可能だと思う。

だから私は、誤解のリスクを背負ってでも、使うべきだと思う。でも私には「気がおけない」知人なんていないので、なかなか使えないのだけど。

※いろんな意味で「失われつつある『良風美俗』」とかぶってしまってます。文字裏太郎さんすみません。