折紙は日本の文化ではない?

以下、おそろしく長文です。

最近気になってしかたない

折紙を折るようになって気がついたのだけど、「折紙は日本独自の文化」という主張に対して、否定的な意見を持つ人が多いように思う。特に、折紙に詳しい人ほど、そういう傾向にあるように思う。

じゃあ、どういう状況であれば「日本独自の文化」と言えるのだろう、というのが、最近気になってしかたない。

たとえば「ひらがな」は日本独自なのか?

たとえば私なんかは、「ひらがな」という文字に対して、「日本独自の文化だ」と胸をはりたいと思うのだけど、歴史をたどれば「中国の漢字の字形が変化したもの」であって、その字形も読みも、もとはと言えば中国のものである。「漢字の字形を変化させる」という「文化」は、中国において「草書」、「行書」、「楷書」などの形で完成されている。こういう視点で見れば、「ひらがなは草書の一形態であり、日本独自のものではない」という理屈も通りそうな気がしてくる。

俳句や短歌も、日本独自の文化だと思っているのだけど、「定型の詩」というくくりで見てしまうと、世界中で普通に見られる、ありふれた文学の一形態にすぎないことになってしまう。

絵画なんかも、西洋の絵画と東洋の絵画は、ぜんぜん違う。浮世絵なんかは、日本独自の非常にローカルな文化だけど、絵画の一種だといわれるといきなり全世界共通の文化になってしまう。

実際問題として、ひらがなも、俳句短歌も、浮世絵も、日本独自の文化だ。特に問題ないと思う。じゃあ、折紙は?

「コンプレックス」な折紙のこと

いわゆる「コンプレックス」な折紙が、日本独自の文化でないのは、明らかだと思う。そもそもコンプレックス系の折紙なんて、ごく一部の人たちだけが楽しんでいる趣味の一種でしかなくて、「文化」というには程遠い。

もしかしたら「芸術の一分野」ではあるのかもしれないけど、それは文化とは違う。とりあえず個人的には、「吉澤章」は芸術だったように思うのだけど、現在認知されているコンプレックス折紙が「芸術」や「文化」に値するとは、とうてい思えない。これを「文化」と呼ぶのなら、ウェブに載ってる自称芸術家の写真やら小説やらは、ぜんぶ文化ということになってしまう。

だから、文化としての折紙を語るときに、世界のコンプレックス系の作家たちを引き合いに出したりするのは、正直、逸脱しているとしか思えない。それはまだ「文化」じゃない

もちろん、私個人としては、コンプレックス折紙は「文化」に値すると信じているし、百年後に「文化」として定着することを願っているのだけど、現状で「文化」を自称するのは無理だろう。

そんなわけで、海外の折紙作家の存在を理由に、「折紙は日本独自の文化じゃない」とかの遠慮をする必要は、まったくないと思う。コンプレックスな折紙以外にも、折紙はたくさん存在しているのであって、むしろコンプレックス以外の折紙のほうが、文化としては正統であると思う。そして、コンプレックス以外の折紙の中には、きっと、「日本独自の折紙」があるんじゃないかと思う。

「伝承折紙」のこと

「伝承折紙」と呼ばれているもののうち、いくつかは、日本とは無関係に存在していたことが知られている。スペインの「小鳥(パハリータ)」なんかは有名らしい。

でも、「だから折紙は日本独自の文化じゃない」と断定するのは、ちょっと短絡しているように思う。

仮に、数多く伝えられている伝承折紙のうちの何割かが、海外に由来するもの(海外由来の折紙の影響を受けたもの)だとしても、別に問題ないと思う。日本に、日本独自の伝承折紙が存在しているだろうことは、ほぼ間違いないだろうし、その部分については「日本独自の文化」と言ってよいと思う。そういうところは、もっと積極的に「日本独自の文化なんだ!」と主張して良いと思う。

日本における折紙の普及

日本における折紙の普及は、これはたぶん、世界的に見て突拍子もない状態になっているのではないかと思う。これは想像で書いているので、自信はないのだけど。

アメリカのホームステイの経験者二人に聞いた話だけど、二人とも「折鶴を折ったらずいぶん喜ばれた」と言ってた。とりあえずアメリカに比べると、日本の折紙の普及率は信じられないほど高い。というか、ほぼ 100% だし。最近でこそ「折鶴の折れない子供」とか「折りかた忘れた大人」がちらほらいるけど、折紙経験の無い人は皆無と言ってよい。

全国民が折紙を知っている。世界的に見て、これは、相当に独特の現象であると思われる。

「紙を折って遊ぶ」という程度の行為なら、たしかに世界共通に見られるものだと思う。でも、「全国民で同じ種類の伝承折紙を折る」というのは、単に「紙を折って遊ぶ」のとは本質的に異なることではなかろうか。

これはたぶん、日本という国の独自性の表れではないかと思う。

日本の伝承折紙の特徴

全員が折紙を折る、という特殊な地域においては、折紙は、それなりに特殊な筋道で発展するのではないかと、私は思っている。たぶん、そんなに的外れな考えではないと思う。

客観的に評価するのは難しいけど、たとえば「K's 折り紙:折り紙の歴史」には、下記のくだりがある。

ヨーロッパの古典折り紙は、45度の折り線を基本としており、日本の折り鶴や蛙のように22.5度の折り線を基本としたものは、ほとんどない。また、用紙形は正方形か長方形に限られ、切り込みやぐらい折りは、ほとんど使われない。このように、日本とヨーロッパの古典折り紙には顕著な違いがあり、両者は独立に発生したと想像される。

ここにも、日本の独自性があると考えてよいと思う。

「日本的な折紙」と、日本的な「見立て」

ちょっと脱線して、上で「文化じゃない」と書いたコンプレックスな折紙の話を少しだけ。ここは私の個人的な感想であって、この部分について特に主義主張はありません。単に「こう感じた」というだけです。

『折り紙』について調べています! 歴史・種類・ウンチクから、進化したもの・変り種・折り紙が得意な折り紙マニアなどなど、『折り紙』に関する情報でしたら何でも構いませんので、お教え下さい!」より引用。

http://www.paperfolding.com/books/tolife/
Bringing Origami to Life, by John Montroll
あ、って、どんなのが西洋っぽいのかよくわかりませんよね。たとえばJohn Montrollさんの作品。作品を、体積のあるものとしてとらえるんです。
http://origami.gr.jp/~komatsu/
折り紙計画/小松英夫
それと比べて日本的なのが小松英夫さん。まあみていただければわかるとおもいますが、平面的なんですよね。でも私は小松さんの作品が一番好きです。

私も、折紙作品に対して、「日本っぽい」とか「日本っぽくない」とかいった印象を受けます。それは「体積」とか「平面」とかを超えて、もっともっと作品のいろんな面に含まれていると思います。

作品そのものよりも、「見立て」のほうに日本人らしさがあるのではないか、という気がします。「折鶴」を「鶴」に見立てられるのは、世界中探しても日本人だけであり、逆に、そういう「見立て」を許容し、美しいとするのが日本の折紙だと思います。

海外の作家は、折鶴の見立てなんて理解できないわけで、そういう意味では、折鶴のようなものを創作しても、「実物と違う、恥ずかしくて他人に見せられない」ということになります。でも、日本の作家は、「実物とぜんぜん違うけど、折鶴っぽくて、むしろ魅力的だ」と感じ、鑑賞する人も、実際にそのような魅力を感じ取ります。

そんなわけで、私は、小松さんの作品は、良い意味で「折鶴」っぽいところがあり、日本的だと思います。神谷さんの作品は、良い意味で「日本人離れ」していると思います。

こういったことを漠然と考えていると、やはり、日本には、「日本独自の折紙文化」が存在しているのではないか、と思えるのです。日本のコンプレックス折紙も、こういった「日本独自の折紙文化」の影響のもとに成立していて、海外のものとは異なるのではないか、と思うのです。

そして、この「日本独自の折紙文化」をきちんと意識しておくことは、それなりに重要なのではないかと思うのです。きちんと意識しておかないと「日本には、日本的な作品を創作できる作家はいなくなった」ということにもなりかねないと思うのです。

ごめんなさい、大風呂敷を広げすぎです。

ええと、その、そもそも言いたかったのは

ええと、その、そもそも言いたかったのは、こういうこと↓です。

「折紙は日本独自の文化ではない」というのは、大雑把には、確かに正しいと思う。でも、ひとくちに「折紙」で片付けるのは乱暴すぎる。絵画なんかも、西洋の絵画と東洋の絵画は本質的に異なっており、十把一絡げに語るのはよろしくない。

「折紙」の中には「日本独自の折紙」の領域も確かにあるのではないか。たとえば「折鶴」の見立てのように。そういう日本独自の領域をきちんと認めないまま、安易に「折紙は日本独自じゃない」と連呼すると、せっかくの「日本独自の折紙」が忘れ去られてしまうような気がする。

ウェブで見る限り、折紙に詳しい人ほど、「折紙は日本独自の文化じゃない」と主張している。それはそれで正しいのだけど、素人が読むと「折紙には日本らしさは存在しない」と誤読すると思う。実際私は、当初、そのように誤読していた。でも、実際にはそんなことはないはず。日本の伝承折紙には、日本らしい何かがきっと含まれているはず。

なぜ折紙に詳しい人が、あえて「日本独自の折紙」を無視するような(そう解釈されかねない)メッセージを流し続けるのだろう。折紙に詳しい人だからこそ「日本独自の折紙」について語る、というのが自然なことではないのだろうか。そうであって欲しいなあ。

……と、こういうこと↑を書きたくて、延々と長文を書いたわけですが、こうしてみると、「書きたいこと」と「わざわざ長文で説明してること」とが、随分食い違っているような気が……。

長文失礼しました。